混浴の歴史について調べたことがある
みなさん混浴って知っていますか?
僕は彼女がいたこと無いので、混浴をあいにく経験したことがないのですが。
きっと、正常な大学生以上であるみなさんなら恋人と温泉やら狭い自宅のバスタブなどで乳繰り合いながら混浴で思い出を深めたりしたのでしょう。
さて、そんな話は置いといて。
なんで僕が、混浴について書いているかというと
僕の大学の授業の中にですね、日本人の精神構造や文化の特異性について研究する授業があったんですよ。
この授業は僕の所属していたゼミの先生だったということもあり大真面目に単位を取る必要があったんですね。
他の方々が、着物だったり日本人の食肉文化だったりを真面目にテーマ設定する中。
僕は「お風呂文化」について大真面目に関心を持ったんですね。
世界を見ても大衆欲情の文化がここまで発展普及している文化は極めて珍しい。
そしてレポートの前にコツコツと自主的に「お風呂」について調べていると
「日本はかつて混浴がメインだったらしい」
ーー唐突にそんな一文が目に飛び込んだーーー
ーーかつて日本は大衆浴場で男女の区別をしなかったーーー
ーーー明治期に日本へ訪れた外国人はそれぞれ驚きを記しているーーー
僕は気になった、なぜ日本はそんな素晴らしい文化があったのか
そして激怒した。なぜそんな素敵な文化が消失してしまったのか。。。
その謎を探るため僕は大学の書架という書架を調べまわった。。。
~はじまりはじまり~
日本には古来より、温泉文化が存在する。
現在の日本では、一部の温泉地域などでしか見られない混浴文化だが、100年ほど前の明治時代までは一般的な入浴体系でだった。
- 混浴の起源
日本史上で、初めて「混浴」の文化が確認されるのは、721年作成の「常陸風土記」という本。
風土記というのは、日本の古代の地方の文化や風俗や特産品等を旧国ごとに編纂した書物です。
旧国ごとに本来作成されたものだが、現存しているものの中で最も最初に登場するのがこの「常陸風土記」という風土記。
しかし、この常陸風土記には、言葉としてしか混浴が登場しておらず、詳しい文化や描写が確認できるのは733年の「出雲風土記」という本。
「出雲風土記」によれば、日本の入浴には「沐=ゆあみ」と「川あみ」という二種類の形式があったとされる。沐とは音のごとく、湯に浸かることをさしており、日本には古代から温泉へ入浴する文化が存在していたことが確認できる。
温泉が身近でない地域などで行われていたのが、「川あみ」というもので、後に「歌垣」と名称が変化していく。
こちらは、河原で男女が戯れながら飲食や歌を交わしながら時に性交を行っていたと考えられている。
そりゃ裸で男女が踊り狂って酒でも飲んでたら、ハプニングしちゃうわな。
川あみの文化は稲作の流入と共に渡来人から日本に伝わってきました。現在もアジアの一部地域では歌垣のような文化が残っているらしい。。。。
知ってる人いたら一緒に調査に行きませんか?
「日本書紀」でも、川あみの記述は登場する。
日本最初の禊に関する一文に、
「黄泉の国から逃げ帰ったイザナギの命は「何とも醜い、汚れた国に行ったものだ。
禊をして身体の穢れを洗い浄めよう」といって、
日向(宮崎県)の小門橘檍原というところで禊をしたという。
この禊ぎによって八十枉津日神、神直日神、大直日神、底津少童命、底筒男命、中津少童命、中筒男命、表津少童命、表筒男命の九人の神を生み、さらに左目を洗って天照大神、右目から月読尊、鼻からスサノヲノ命をもうけたとされている。」(下川 2013)
ここで重要なのは、禊によって数多の神々が生れたところにある。禊とは「川原などで水によって身を浄め、罪や穢れを祓い落とす」(『時代別国語大辞典/上代篇』)
とある、つまりこれらのことは、歌垣をさしているだけでなく、初の禊の際に、日本三大スターである天照大神、月読尊、スサノヲノ命の三体が生れている。主要な三体の誕生に混浴が与えていた影響が大変なことだったのがよくわかります。
- 古代から江戸までの混浴
日本人にとって混浴は大変身近で当たり前にある生活の一部でしたが、国という枠組みが出来上がるにつれて、民衆と政府の間で隔たりが出てきたことを歴史で追いながら見ていきたいと思います。
朝廷は693年に宮中行事として、歌垣を踏歌節絵というものに歌垣を昇華した。この行事には歌垣における性的な要素は排除され、上品なものに歌垣が変化した。民衆はそんな歌垣を変化させようとすることに対して、「雑魚寝」や「風流」など歌垣を別の形で続けようと試みます。
797年に日本初の混浴禁止令が下される。これは、僧が行う「効徳湯」の禁止から始まっています。僧が施したこの効徳湯によって都の治安が乱れたことが起因している。しかし、民衆には禁止令の効果は全くなかった。
1191年洪水によって衰退した有馬温泉の経営立て直しが始まる。その中で、湯女という風呂内で客を接待する職業の女性が誕生し、日本における遊郭の原型が生れる。
以降400年の間、日本では遊郭が誕生するまで、この「湯女風呂」が性の接待を行う場所となる。
1592年に江戸で日本初の銭湯が誕生する。この時の風呂のことをザクロ風呂と呼ぶ。当時江戸の街は完成しておらず、街には出稼ぎの男性労働者の人口が高く女性はたいへん少なかった。その為、このザクロ風呂も費用対効果を考え混浴であった。
1589年に、秀吉の手で後の島原遊郭が誕生し、1617年に江戸でも遊郭が誕生する。1640年に吉原遊郭が暮れ六つ以降の営業を禁止され、湯女風呂の覇権は大きくなっていったが、幕府側を味方につけた遊郭方によって1680年代に湯女風呂は完全に禁止される。
かつて湯女風呂だった店は廃業か普通の銭湯としての転換をするか選択することになった。
その結果、江戸の街には沢山の銭湯が生れた。
この当時の混浴風呂のことを入込湯という。
しかし、元々は風俗としての色が強い湯女風呂だったため、性的事件も起きていた。そして記録として1733年初めての女湯が江戸で誕生する。
このころになると女性の人口も増加し、分けることが可能になった。1791年寛政の改革が始まり1796年に入込湯は禁止の令が下った。
しかし、女風呂は女性から不評で男性風呂に入る女性も多かった。
理由としては
「女の気性によりて、女中湯(女湯)はこみあい候てやかましきなどといいて、男湯へ入り込み候ものも有り……」(喜田順有 『親子草』1797)
とあるように狭かったことや
「同様のことは当時の川柳でも指摘されている。
口々に噂を流す女風呂 女湯で世上のあかをこすりあい 人の非を吹く女湯の柘榴口 など、女同士の陰口やうわさ話を皮肉ったものが目立つのである。」(下川2013)
三都などの大規模なまちでは、混浴と遊郭は近しい関係であり、江戸では銭湯の発展は風俗の生き残りの形でしていった。
- 開国から現代までの混浴
日本には幕末から明治期にかけて、多くのそして大量の外国人が来日した。
その際に多くの外国人が日本の混浴文化を目にすことになった。
外国人が混浴に対しての感想を知ることのできる始まりはペリーたちが日本に来た際の記録である「ペリー艦隊日本遠征記」などから知ることが出来る。
この本の中で、日本の混浴文化は大変淫らで恥じるべき文化だと酷評されていた。
他にも多くの外国人が同様の事を自分の手記などに残している。
酷評した人々の中にはプロテスタントの宣教師や日本民族を野蛮と見なした上で来日していた者も多くおいたが、日本の国際的な評価が下がった事には変わりない。
しかし、一方で彼らと違い著名な外国人であるビゴーやモースは日本の混浴文化を非常に高評価し、軽蔑の対象としてではなく、文化の違いであると捉えていた。
下川(2013)によれば、
「わずかな事例から結論を急ぐ気はないが、日本蔑視の論拠として混浴を持ち出す人々は、自分たちの文化的優位性を確信する「文化的なナショナリスト」であり、客観的に評価する学者は日本という特異な文化圏への好奇心を抱いているといってよい。」
と述べている。
中には、好意的な見解もあったものの政府は混浴による日本人蔑視を国辱と捉え1868年に大々的な禁止を行い、1874年には検挙をついに行いましたが、どれも効果はあまりなかった。
中央政府の熱意に比べて、地方の人々にとって混浴禁止はさほど問題ではなかったのである。
最終的に日本が混浴を本気でなくしていくことになるのは、戦後1948年の公衆浴場法第三条「風紀に必要な措置をとれ」と記載されてからになる。
1956年売春防止法が施行され混浴は犯罪を是認するので禁止するようにとなり、これと同時に日本における遊郭は完全に廃絶されました。
以上の法律に加え1964年の都条例で混浴が禁止になると、日本中で徐々に混浴禁止が広がっていきました。なぜ1964年に突然混浴の禁止が徹底されたのかを考えると、
高度経済成長期に入り文化の変化が激しかったことオリンピックが近づき外国の目を気にしたことがあげられます。
結論.なぜ民衆は混浴に拘ったのか
これまでの章で、混浴に関する事柄を時系列ごとに述べてきた。経緯を見ても、国民が望んで混浴を禁止にしたわけでなく、政府が外国の目を気にして混浴を廃絶しようと躍起になっていたことがわかる。
民衆は古代から受け継がれる自分たちの文化に疑問を持つことなく受け継いでいた。その為、仮説2のように、西洋文化の流入は関係していたもの、日本国民の意識の変化よりも政府が外国に対する意識に合わせたといってもよいだろう。
仮説1で言った日本人には特殊な精神構造があったのかということに関しては日本人は、西洋人のように裸体=性というつながりはあまりなかった。
江戸時代の春画において、性行為の描写は大量に存在しているがそのほとんどは着衣の状態である。乳房に対して性的関心はなかった。
理由としては、乳房は子供が授乳の時に吸うものであり、子供のためのものであると考えられていたのも一因だといえる。
漫画家つげ義春のエッセイで群馬県湯宿温泉にいったさい婦人風呂はガラガラであり、つねに混浴風呂が混んでいる男湯に分けても女性から男湯の方に行くため混浴にした。
など他の人のエッセイでも山あいの娘たちが異性の肉体への好奇心から男湯に入浴していたことが書かれている。
これらの事から、日本人には西洋人に比べて特殊な精神構造を持っていたといえるだろう。
「見えているが、見えていない状態」というのは、裸体は見えているが、性行為に結び付く西洋の価値観で裸体が見えていない状態である。
文献リスト
下川こう史(2013)『混浴と日本史』筑摩書房
町田忍 (2016)『銭湯―「浮世の垢」も落とす庶民の社交場―』ミネルヴァ書房
~fin~
一部レポートから削ったり、コメントの追加をしたりもしているんですが
僕はこのレポートを大真面目に書いて女子多めの講義で大真面目にパワポまで作って解説しています。
個人的には、大変興味深い内容だったので調べてて、楽しかったんですけども
今見直しても甘いところが沢山ありますね。。。。
本職の人たちに怒られそう
てか、授業のレポートこんな風に公開しちゃっていいの?というかたもいますけど
いいんです
なぜなら、提出していないから
この発表の後、ゼミの先生と一悶着あって僕はゼミをやめてまして
その時のドタバタでこの授業も放棄しているので結局このレポートは出していないんんですね
もちろん単位も無いし、書いて1年経ってるし時効だろうと
後せっかく書いたのに、なんか勿体無い気がしたので今回挙げています。
同じような志の方がいたらぜひ参考文献くらいは読んでいるといいと思います。
それではみなさんさようなら
次回、夜這いについて大真面目に考察した話でお会いしましょう